角館は、三十分で終わる
― 観光の起点を、動かすという話 ―
「地図がない」と書いた、その翌日に
昨日、火除けのことを書いた。あの空白の使い道が私には浮かばない、と。
理由も書いた。町中が空き地と空き家だらけなのに、どこから手をつけるかという順番、つまり地図がないからだ、と。
そう書いた晩、寝床で何かが閃いた。
記事にすべきか、面倒だから捨て去るか、悩んだ。悩むと眠れない。眠れないと余計なことまで思案する。
ああ、これは記事にしろと自分の魂が語っているんだなと気づいて、起きた。
閃いたのは、地図の話だった。
地図がないと書いた翌日に、自分で地図を描いてしまったわけだ。しかもごく単純な、駐車場の位置を入れ替えるだけの地図である。
先に断っておく。これは誰でも思い付いていることだ。思い付いても形にしないだけの話だと思う。
三十分で終わる町
角館に来て駐車場といえば、桜並木付近の駐車場だろう。
停めて歩けばすぐ武家屋敷。通りを見て、街中を少し歩いても何もないからそのまま戻り、駐車場近くの土産屋を見回って、次の観光地へ。
急げば三十分で終わる。

三十分で終われる町は、三十分の町として扱われる。
角館の良さは、そこで中途半端に切られている。
次は角館駅。
新幹線が停まるのに、駅の周りには昔のような「ようこそ、角館へ」という気配がない。
歩いても雰囲気は良いのに、寄り道をする場所がない。シャッターの下りた通りを抜けるだけだ。
そりゃそうだ、と自分でも思う。
徒歩で買い物をする客がいなくなり、店の前に駐車場もなく、町外にできた大型店に負けて消えた。今も絶賛営業中の店は数えられるほどしかない。
だから観光客はそそくさと武家屋敷側へ回り、そそくさと角館を後にする。
寂れていて、楽しみもないのでは人が歩かない。人が歩かないからさらに寂れる。
この悪循環を、どこかで一度だけ切らないといけない。
「ある」と「使える」は、別のことだ
先に断っておくが、駅にも駅前にもロッカーと手荷物預かりはある。私も知っている。
だから「無い」と書くと、あるじゃないかと言われる。それは正しい。
正しいのだが、使う側から見ると話が違う。
まず、来た人は知らない。案内が目に入る場所にあるかどうかは、そこに慣れた人間には判断できない。
次に、数が足りないと聞く。桜の時期に足りるとは思えない。
そして今の旅行ケースは、昔より大きい。箱があっても寸法が合わなければ入らない。
最後に、知らない人に荷物を手渡すのが不安だ、という人もいる。
人はわがままなんだよね。
でも観光地に来るのは、そのわがままな人たちだ。
つまり、有る無いを数えても意味がない。使われて初めて「有る」ことになる。
そして本当に無いのは、荷物を預けた人が、そこから歩き出す先の方だ。
預かり所はある。預けて歩く道の先に、何も無い。
これは設備の問題ではなく、順路の問題である。
順路を決めているのは、駐車場だ
観光客は看板で歩き出すのではない。降りた場所から歩き出す。
どこで降ろすかが順路を決め、順路が、金の落ちる場所を決める。
だから今の角館は、武家屋敷通りの周辺だけが繁盛する。
当たり前だ。そこで降ろしているのだから。
面白いのは値段の方だ。
駅前の市営駐車場は無料で、武家屋敷側の駐車場は有料である。それでも人は有料の方に停める。
安いか高いかで選んでいるのではない。順路のどこに置かれているかで選んでいる。
駐車場は、料金表ではない。この町の設計図だ。
提案:起点を、駅側へ
私の案はひとつだけだ。
団体の観光バスの駐車場を、駅側に配置し直す。それだけである。

そんな空き地があるのかと思った。ある。
仙北市役所角館庁舎の向かい側、仙北市立角館こども園のあるあたりだ(図の A)。
ここに団体バスを着ければ、起点は駅周辺になる。
人はそこから街中を通って武家屋敷通りへ向かう。今と逆の順で歩くことになる。
大事なのは、今ある駐車場を潰さないことだ。桜並木の駐車場はそのまま残す。
無くす話ではなく、流れを変える話である。
立町から駅への坂は、意外にキツイ
ここで疑問が出るはずだ。
Aに着けたバスに、また戻ってこさせるのか。往復させたら数時間の散策は成立しないのではないか、と。
私もその案はダメだと思った。
ガキの頃から立町から駅に向かう道は歩いているが、あれは上り坂で意外にキツイ。行きは下り、帰りは上りである。観光客に二度歩かせる道ではない。
だから、こうする。
人を降ろしたバスは、旧北高のグラウンド跡の駐車場(図の B)へ回送しておく。
観光客は駅から街中を歩き、最後に武家屋敷通りを味わい、その北端でバスに乗る。そのまま次の観光地へ抜けられる。
短時間のツアーなら、最初からBに着けてぐるっと回らせればいい。
Bをここにしたのには理由がある。
あの場所は、武家屋敷通りの中から直接乗り込める。通りを歩き終えた足のまま、車道を渡ったり回り込んだりせずにバスに着く。
歩かせる道の終点に乗り場がある、という一点でここを選んだ。
降ろす場所と乗せる場所を分ける。ただそれだけで、坂は一度も上らずに済む。
一般車は、逆回り
では桜並木の駐車場はどうするか。
一般車専用にする。個人客は今までどおり武家屋敷から入り、街中へ下りて、駅の方へ抜ける。
団体は北へ、個人は南へ。逆回りにすれば、狭い通りで同じ方向にだけ人が詰まることもなくなる。
一方通行ではなく、循環になる。
効くのは、私が死んだ後かもしれない
念のために書いておくが、これは数年の話ではない。
起点を動かしても、その日に店が建つわけではない。歩く人が増え、歩く人がいるから店が出て、店があるからまた歩く。その順で、数十年かけて育てる話である。
逆に言えば、数十年かかることを始めないままだと、数十年後も三十分の町のままだ。
三十分は、放っておいても短くなることはあっても、長くはならない。
都合の悪いことも、書いておく
自分の案に反論を並べておく。これを潰せないなら、ただの思い付きで終わる。
ひとつ。こども園の隣を大型バスの発着地にするのか、という話。
子どもがいる場所である。時間帯も動線も、そこを最優先で設計しないなら、この案は出すべきではない。
ふたつ。回送はタダではない。
運転手の拘束時間も燃料も余計にかかる。ただし、降車地と乗車地が別なのは観光バスでは珍しいことではない。同じ場所に戻す今のやり方の方が、むしろ珍しい。
みっつ。受け皿が無いのに人だけ降ろしても、歩かせただけになる。
これは順番の問題で、私は逆だと思っている。今は「歩く人がいないから店が出ない」のであって、起点が移って初めて、店を出す理由の側ができる。ニワトリが先か卵が先かの話だが、卵をどこに置くかは決められる。
よっつ。Bの駐車場は今のところ普通車だけの扱いだ。
たぶん、高校側から下りてきた大型が、あの交差点で左折しにくいからだと思う。私の推測だが、大きい車を運転する人なら見当がつくはずだ。
ならば、入る向きを変えるか、進入路の側を直すか、どちらかの話になる。停められない理由があるのなら、それは「やめる理由」ではなく「直す箇所」だ。
いつつ。冬がある。雪を寄せる場所も、起点を変えれば変わる。
むっつ。伝建地区の規制がある。武家屋敷側は好きにいじれない。
だからこそ、いじれる側、つまり駅側と外町を動かす案にしてある。
そして、ここが一番言いたいところだ。
これは素案である。Aでなくてもいい。Bでなくてもいい。中身は変えてもらって構わない。
ただ、ダメだダメだと言い続けていると、結局何もできないまま終わる。この町はもう、それを何十年か続けてきた。
本当に、この町の三十分を決めているのは誰か
もうひとつ、身も蓋もないことを書く。
角館の滞在時間を決めているのは、たぶん角館ではない。旅行会社が作る行程表だ。
「角館 三十分」と紙に書かれている限り、町が何を並べても三十分である。
起点を動かすというのは、その紙を書き換えさせるということだ。
降車地と乗車地が別になれば、行程表は必ず書き直される。書き直されるとき、初めて滞在時間の欄も触られる。
これは観光課だけの話ではないし、市だけの話でもない。バス会社、旅行会社、観光協会、そして町の側が同じ地図を見ていないと動かない。
だから難しい。誰でも思い付く案が具現化しないのは、思い付きが足りないからではなく、同じ地図を見る場がないからだ。
それでも、今だと思う
私はこの案が正しいとは言わない。素人が寝られなかった夜に考えた地図である。
ただ、これだけは確かだ。
駐車場一つの位置が、この町の三十分を決めている。
そして、その位置は市が決められる。土地も市の側にある。無理な話ではない。
観光地として今後も進めるなら、今がその改革の時期ではないかと思う。
何十年か経って、駅前を歩く人がいるかどうか。答えを見るのは、私ではないだろうけれど。
誰でも思い付くことを、誰も形にしない。
だから私は、昨日の晩、寝られなかった。