ホジはどこにあるのか
実物を見たことがない
「ホジナシ」
「ホジネな」
「イオヤでホジ買って来い」
「イオヤさ行ったけど、ホジ売ってなかった」
「ホジ落とした」
角館で暮らしていると、この「ホジ」という単語を年に何度も耳にする。ワラシ(子ども)の頃からずっと聞いている。そして今日まで一度も、実物を見たことがない。
買って来いと言われ、売っていないと返され、落としたと嘆かれる。買える、売り切れる、落とす。どう聞いても物である。物であるなら、どこかにあるはずだ。
無くした人はいる。拾った人もいる。だが交番に届いているという話は、まだ聞いたことがない。
難しい方の説明
秋田では「正気」「本心」「しっかりした意識や知恵」あたりの意味の方言、ということになっている。
難しく考えると、仏教用語の「本地(ほんじ)」——仏や菩薩の本来の姿——が変化した言葉らしい。らしい、と書いたのは、私が仏教用語に詳しくないからだ。ここで解説を始めると、詳しい人に一行目から怒られる。
ただ、これが本当なら、なかなかの言葉だと思う。「ホジナシ」は「本来の姿がない」ということになる。つまり昔から角館の茶の間では、酔って帰ってきた亭主に向かって、女房が仏教哲学をぶつけていたことになる。ありがたい話である。当人には一文字も届いていなかっただろうが。
簡単な方の説明
私は難しく考えない方の人間なので、こう理解している。
ホジとは、普通か正常のとき、である。
それだけだ。特別に賢い状態のことではない。ちゃんとしている、まともでいる、その辺の当たり前のところに置いてある。だから普段は誰も、自分がホジを持っていることに気づかない。
気づくのは、無くしたときだけだ。
若い頃、酒を浴びるほど飲んだ。大虎、ウワバミ、記憶をなくす、前後不覚。あれは要するに、ホジを無ぐした状態である。翌朝、頭を抱えながら昨日の道順を辿って探すのだが、たいてい見つからない。落とした場所すら思い出せないのだから、当然だ。
面白いのは、この単語が戻る方向にも使えることだ。
「ホジついた」
「ホジ拾った」
私のように、ワラシの頃からホジネと言われ続けた奴が、ある程度の歳になって大人しくなる。すると周りが「あいつもホジついたな」と言い出す。
つまりホジは、落ちているものを拾ってもいいらしい。中古で構わないらしい。誰が落としたものを拾ったのかは、誰も気にしない。私が今どうにか使っているものも、出どころは不明である。
なぜイオヤなのか
角館でホジの話になると、必ず「イオヤ」が出てくる。よその人には、まず意味が分からないと思う。
ひと昔前、あの店はワンストップショップだった。一回の立ち寄りで必要なものがすべて揃う場所。だから「ホジ買って来い」の行き先が、自動的にイオヤになる。この町で何でも売っている店といえば、そこだったからだ。
「だった」と過去形にしたのには訳がある。周辺にホームセンター、ディスカウントストア、スーパーができた。理由はそれだけだ。もし何もできていなければ、今でも行けば何でも揃う店だったと私は思う。
言い換えると、あの店は歩いて買い物をする町の店だ。むしろ都会向きと言ってもいい。車を置く場所が要る今の暮らしに合わないだけで、店の中身が悪くなったわけではない。合わなくなったのは、店ではなく町の方かもしれない。
それどころか、あの店は歩いて買いに来てくれる客を大事にしていると思う。だからこそ、その人たちが必要とする物をきちんと取り揃えていた。ワンストップショップというのは、本来そういうことだ。品数を誇ることではなく、来た人が「無い」と言われずに帰れること。
十年ほど前、私はあの店で信越工業製の手芸用のPPバンドを買っている。手芸用のPPバンド自体は、今ではどこでも取り扱いがある。ただ、信越工業製となると、どこの店にも置いてあるという物ではない。それが、歩いて行ける町の店の棚にあった。
愛想の話
口コミで「店主は愛想が悪い」と書かれているのを見かける。
私はそう思わない。というより、順番が逆だと思っている。
客の側が店主を見定めしにかかっているから、そう見えるだけだ。試されている人間が、にこにこするわけがない。本当に何かを探して困っている人間が行けば、ちゃんと汲み取った反応が返ってくる。私はそう受け取っている。
用もないのに、値踏みのためだけに店の敷居をまたぐ。それは迷惑以外の何物でもない。イオヤに限った話ではなく、どこの店でも同じだ。
結論
そして、そういう見定めをしに行く奴ほど、だいたいホジを落としている。
だから本当は、そういう人間こそイオヤでホジを買うべきなのだ。
残念ながら、イオヤではホジは売らん。
売っていたら、この町はとっくに在庫切れである。
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(文中の秋田弁)
ホジ = 正気、本心、しっかりした意識
ホジネ = ホジがない
ワラシ = 子ども