角館の空気
角館で一番嫌いなもの。
考えるまでもない。すぐに浮かぶ。
それは自分だ。
角館において、私ほど不要なものがあるだろうか。
三十年以上前なら、私が居なくなって清々する人達も多かったと思う。実際、そういう顔をしていた人が何人かいた。名前は出さない。出さないが、覚えている。
ところが最近、様子がおかしい。
誰も私を気にしない。すれ違っても見ない。避けもしない。
武家屋敷通りで観光客が私の中を通り抜けていった時は、さすがに立ち止まった。向こうは立ち止まらなかった。
そう、私はもう空気なのだ。
居ても居なくても、どうでも良い存在。
……と、そこまで考えて気がついた。
空気じゃないか。
空気は、無いと困る。
というか、無いと死ぬ。
調べたところ、空気の内訳は窒素が七十八パーセント、酸素が二十一パーセント、残りの一パーセントがアルゴンだの何だのだそうだ。
私はその一パーセントの、さらに端の方にいる。角館の空気の、小数点以下のどこかを担当している。
担当している以上、責任はある。
桜が咲くのは、たぶん私が息を吐いているからだ。証拠はない。無いが、否定もされていない。
桧木内川の水が流れているのも、雪が上から降ってくるのも、私が特に反対していないからである。
お祭りの三日間、私は町内のどこにも居ない。居ないが、みんな吸っている。
ただ、正直に言えば、これがなかなか汚れた空気である。
自覚はあるので、ここ十年近く、旨味成分を足せないかと工夫を続けてきた。
昆布のつもりで一枚沈めてみる。隠し味のつもりでひと振りしてみる。書いたり、作ったり、余計なことを言ってみたり。
だが、絶妙なスパイスはいまだに完成しない。
そりゃそうだ。
嫌われる成分の方を旨味に変えようというのだから、掴もうとしても手には何も残らない。
まさに空気である。
そして誰も味見に来ない。
旨味のない空気に、わざわざ近づこうとする人間がいるわけもない。
それでいい。むしろ、そのまま忘れられた方が良い。
気づかれた空気にろくなものはない。臭いか、煙いか、寒いかだ。
だから私は、これからも誰にも気づかれないように漂う。
気づかれないまま、味付けだけは続ける。
角館で一番嫌いな成分が消えれば、この味は完成するらしい。
完成した空気など、誰も吸ったことがないが。