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ニッチは、狭さのことではない

| Alaudae.JP

― 壁のくぼみから、検索されない言葉まで


最近、自分でも「ニッチ」という言葉をよく使っている。使っているうちに、そもそもニッチとは何なのかが気になって、調べてみた。というより、AIに聞いてみた。もうある程度の言葉は、わざわざ検索しなくても聞けば分かる時代になっている。

気になったきっかけは、たぶんこれだ。

「ニッチな商売ですね」

そう言われることが、たまにある。悪気があって言われているのではないのは分かっている。それでも、聞くたびに少しだけ引っかかるものが残る。褒められたようでもあり、小さいですねと言われたようでもある。どちらとも取れる言葉だから、返事に困る。

調べてみて分かったのは、自分が引っかかっていたのは相手の口ぶりではなく、この言葉が日本語に入ってくる途中で落としてきたものにあるらしい、ということだった。

壁のくぼみ

ニッチ(niche)は、もともと建築の言葉である。日本語では壁龕と訳す。へきがん、と読む。読めない。私も今回はじめて読み方を知った。

壁を厚くして、その一部をくぼませ、そこに聖像や花瓶を置く。教会の壁でよく見かける、あの半円形のくぼみのことだ。

語源をたどるとフランス語の nicher、さらにさかのぼればラテン語の nidus、つまり「巣」に行き着くという。巣を作る、という動詞から来ている。

つまり語源からすれば、ニッチとは巣のことである。「ニッチな商売ですね」と言われていたのは、要するに「巣ごもり商売ですね」だったわけだ。あながち外れていない。ひとりで家にこもって、かごを編んでいるのだから。

ここで注意しておきたいのは、壁龕が壁龕であるのは、狭いからではないということだ。そこに置かれる一体の像と、くぼみの寸法とかたちが合っているから、それは壁龕になる。像より大きすぎれば間の抜けた穴になり、小さすぎれば像は入らない。要は、寸法の一致の話なのだ。小ささの話ではない。

重ならないということ

この言葉を生態学に持ち込んだのは、二十世紀初めの生物学者たちだった。ジョセフ・グリネルが一九一七年に場所としての意味で使い、チャールズ・エルトンが一九二七年に役割としての意味で使った、というのが通説になっている。日本語では生態的地位と訳される。

グリネルとエルトン。正直に言うと、私が知っているのはねるねるねるねとエルトン・ジョンだけである。

ある生き物が、どんな環境の、どんな高さで、何を食べ、いつ活動するか。その組み合わせ全体がその生き物のニッチである。そしてここでも、小ささは条件になっていない。条件は、他と完全には重ならないこと、その一点だけだ。同じニッチを完全に共有する二種は共存できない、という考え方まである。

つまり生態学のニッチも、建築の壁龕と同じことを言っている。かたちが合っていること。他のもので代わりが利かないこと。

「隙間」という訳語

ところが、この言葉がビジネス用語として日本語に入ってきたとき、隙間産業、隙間市場という訳語が当てられた。そしてその訳語のほうが定着してしまった。

ちなみに、隙間産業と言われて嬉しそうな顔をした人を、私はまだ見たことがない。

隙間、と言ってしまうと、どうしても規模の話になる。大きいものと大きいものの間に残った、狭い場所。誰も来ないから空いている場所。本命ではない場所。

英語の niche market が本来言おうとしていたのは、特定の需要に対して過不足なく合っている市場、ということだったはずだ。それが日本語では、小さい商売、大手がやらない商売という意味に寄っていった。冒頭の「ニッチな商売ですね」に私が引っかかっていたのは、たぶんこの寄り道の分だったのだと思う。

余談だが、チェコ語では nika という一語が、壁のくぼみと、生き物の居場所と、市場のニッチの三つをまとめて指す。あちらでは分かれずに済んだわけだ。

さらに余談を重ねると、この nika を見て真っ先にワンピースのニカを思い浮かべた人もいるかもしれない。私もそうだった。語源はまったく別なので念のため。ただ、そこにしか収まらない場所という意味と、収まる者が現れるまで名前だけが残っていた神様というのは、言われてみればよく似ている。

では、自分の商売はニッチか

私はPPバンドという、本来は荷造り用の帯で、かごを編んでいる。材料を仕入れ、道具を作り、編み方を書き、売っている。全部ひとりでやっている。

これを隙間を狙った商売かと言われると、違う、と答えるしかない。狙ってはいない。狙えるほど市場を眺めてから始めたわけではないからだ。荷造り用の帯が編めることに気づいて、編んでみたら思ったより丈夫で、続けているうちに欲しいという人が現れて、今に至る。順番はいつもそうだった。

置ける場所がそこしかなかった、というのがいちばん近い。壁のくぼみに像を置くとき、置く人は隙間を探しているのではない。手元にある像と、目の前のくぼみのかたちが合うかどうかを見ているだけだ。

検索されない言葉

もう一つ、同じ話が別のところにも出てくる。

サイトのアクセスログを見ていると、うちのページに人がたどり着くときに使われている言葉は、ずいぶん限られている。PPバンド、かご編み、編み方、作り方。そのあたりの組み合わせばかりだ。

検索されている回数は、決して多くない。日に何件という世界である。バズるという言葉とは、生涯縁がなさそうだ。世の中の大きな言葉と比べれば、無いに等しい。

しかし、その言葉を打ち込んだ人が求めているものと、こちらが置いてあるものは、ほとんど寸分たがわず一致している。ぼんやり眺めに来た人ではない。PPバンドでかごを編みたい、その一点で来ている人だ。

検索窓もまた、一つのくぼみなのだと思う。誰かが打ち込んだ言葉というくぼみに、収まるかたちをしたページは、たいてい一種類しかない。数の問題ではなく、かたちが合うかどうかの問題である。そう考えれば、検索される回数が少ないことは、少しも欠点ではなくなる。

くぼみは、あとから気づく

結局のところ、ニッチとは狭さのことではなく、かたちが合っていることだった。

そしてもう一つ、調べているうちに思ったことがある。壁龕は、像を置いてはじめて壁龕になる。空のくぼみは、ただの穴だ。

自分の居場所を探している人に、隙間を狙えとは言いたくない。狙って見つかるものではないと思う。手元にあるものを、置けそうな場所に置いてみる。それを何年か続けて、ふり返ったときにはじめて、ああ、あれはくぼみだったのか、と分かる。私の場合はそうだった。

だから今度また「ニッチな商売ですね」と言われたら、こう返すことにしようと思っている。

隙間ではないんです。かたちが合っているだけなんです、と。

とは言うものの

ここまで書いておいて、ひっくり返すようで申し訳ないのだが。

そう言い切れる自信は、実のところ半分もない。PPバンドでかごを編む人は、私のほかにもたくさんいる。教える人もいるし、売る人もいる。他のもので代わりが利かないこと、という先ほどの条件に照らせば、私自身は少しもニッチではない。生態学の言い方を借りるなら、同じくぼみに何人もひしめいて、押し合いへし合いしている状態だ。

くぼみのかたちは分かった。では自分がそこにぴたりとハマっているかというと、まだハマれていない。どこか角がつかえている感じが、ずっとある。

ただ、壁龕の話でひとつ救われるところがあるとすれば、あれは像のほうを削って合わせることもできるし、くぼみのほうを削り直すこともできる、ということだ。教会の職人は、たぶん両方やったのだと思う。ハマっていないのなら、どちらかを削ればいい。

還暦まで、あと三年ある。削る時間なら、まだ少しある。

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