桧木内川に、まだ三平はいるか
釣りキチ三平を知っているだろうか。
昔のマンガだ。三平という男の子が、山と川で魚を釣りまくる。描いたのは矢口高雄という人で、この人は秋田の生まれだった。横手のほうの、雪がとんでもなく降る村で育っている。だからマンガに出てくる川も山も、遠いどこかの景色ではなかった。秋田そのものだった。
自分は、あのマンガを読んだから川に行ったのではない。逆だ。もう毎日のように川にいて、だからあのマンガが刺さった。
あのころの桧木内川は、夏になれば必ず誰かがいた。橋の下で何か採っていても、怒る人などいなかった。泳いでいても、気をつけろよ、で終わりだった。
カジカを素手で捕るのがうまいやつがいて、みんなでそいつのやり方を真似した。捕ったやつは持って帰る。夕飯に出てくる。それが普通だった。
今、車で橋を渡っても、川に子供がいない。ひとりも見ない。
なぜだろうと考えていた。
ひとつは、単純に子供の数が減ったことだ。この町で生まれる赤ん坊は、自分が子供だったころの何分の一かになっている。だから川にいる子供も、それだけで減る。
ただ、それだけではないと思っている。
昔は、川で捕ったものが夕飯につながっていた。カジカでもウグイでも、持って帰れば台所へ行った。釣りは趣味ではなく、暮らしの一部だった。三平の世界がまさにそれだ。獲る行為の先に、必ず食う場所がある。
今は、釣りが趣味として独立している。道具があり、技術があり、シーズンがあり、その内側で完結する。それが悪いという話ではない。桧木内川を鮎の川として守ってきたのは漁協の人たちで、毎年稚魚を放し、川を管理してきたからこそ今も魚がいる。
ただ、趣味には道具も技術も時間も金もいる。子供が入れるのは、そっちではない。素手でカジカを引っ張り出すところから入れた昔の入口は、地面と同じ高さにあった。その低い入口が、いつのまにか見えなくなった。
子供が川からいなくなったことと、川と台所が切れたことは、たぶん同じひとつのことの表と裏だ。誰が悪いわけでもない。誰も選んでいない。それでも、失われたものは失われた。
なんだか寂しい。それが、これを書こうと思った理由だ。
ここからは、子供に向けて書く。
君はたぶん、こう思っている。川は釣りをする大人の場所で、勝手に入ったら怒られる。券がいるらしい。そもそも入っちゃいけないんじゃないか。
違う。そこだけは、はっきり書いておく。
泳ぐこと、水に入ること。これは自由だ。手続きも許可も何もいらない。川はみんなのものだからだ。
石をひっくり返して虫を探すのも自由。サワガニも、ドジョウも、ヤゴも、何の券もいらない。
券が関係してくるのは、決められた種類の魚を捕るときだけ。それも、子供はほとんど金がかからないようになっている。
ここまでだ。これ以上は書かない。
どの魚が対象なのか。いくらなのか。何センチ以下は捕っちゃいけないのか。いつからいつまでが休みの季節なのか。全部ちゃんと決まっていて、漁協に電話すれば教えてくれるし、県が出しているパンフレットにも載っている。
それは自分で調べてくれ。
答えを全部並べてもらって、その通りに動くだけなら、たぶん君はすぐ飽きる。三平だって、いつも自分で調べて、自分で歩いて、自分で確かめていた。ああいうやつは、誰かに教えてもらった知識では動かない。
本当に川に行きたいなら、調べるはずだ。おうちの人に一緒に電話してもらってもいい。それも含めて、川に行くということだと思う。
ひとつだけ、こつを書いておく。
釣りをしている人がいたら、その近くには入らない。それだけでたいてい大丈夫だ。あの人たちは何時間もかけて一匹を狙っていて、そこに飛び込まれると全部が台無しになる。逆に言えば、少し離れて、こんにちはと言っておけば、怒る理由なんてない。
怒られるかもしれないという想像だけで行かなくなっている人が、たぶん一番多い。自分は、子供が釣り人に怒られたという話を実際には聞いたことがない。
最後に、これだけは調べさせない。そのまま書く。
自分は、鵜ノ崎橋の下で溺れかけたことがある。
水は多くなかった。普通の日だった。橋の柱の足元というのは、川底が掘れて穴のようになっている。そこに入ったら、水がぐるぐる回っていて、体が柱に押しつけられた。抜けられない。
ああ、俺はこのまま死ぬな、と思った。
無我夢中でもがいて、なんとか抜けた。うまく泳げたからではない。運が良かっただけだ。あれは今でもそう思っている。
橋の柱の足元が掘れるのは、水が柱にぶつかって川底を削るからで、どこの橋でもそうなる。桧木内川だけの話ではないし、上から見ても全くわからない。穏やかそうに見える場所ほど、そうだったりする。
だから三つだけ約束してほしい。
ひとつ、大人と一緒に行くこと。ひとりで行かない。友達だけでも行かない。
ふたつ、ライフジャケットを着ること。かっこ悪いと思うかもしれないが、着ていれば助かる場面が本当にある。
みっつ、雨が降ったあとは行かないこと。ここが晴れていても、上流で降っていれば水は増える。増えた川は、別の生き物だと思ったほうがいい。
矢口高雄は、子供向けの釣りの入門書の監修もしていた。あれだけ川の怖さを描いた人が、それでも子供に釣りを教えようとしていた。危ないから遠ざけるのではなく、危ないから教える。順番はそちらだったのだと思う。
自分が橋の柱の穴を知ったのは、そこで死にかけたからだ。誰かに先に教わっていれば、あんな思いはしなくて済んだ。だからここだけは、調べろとは言わない。
自分で捕った魚を、自分の家で食う。あれはうまい。
買ってきたものを食うのとは、何かが決定的に違う。うまく言葉にできないのだが、とにかく違う。三平が夢中になっていたのも、たぶんそこだ。
桧木内川は、まだそこに流れている。魚もいる。カジカもいる。決まりのほうも、君を追い出したりしていない。
あとは、調べて、行くだけだ。